WORLD CUP 1997 at HYVINKAA
第2回ワールドカップはペサパッロ発祥の地ヒヴィンカーで開催された
- 【8月8日】
- 練習試合1日目 SISMAのチーム。トップバッターのヤマト・大谷は早々とダイビングヘッドをマスター。ファースト日置とキャッチャー奥山が強打の洗礼を受ける、奥山の左手の指は骨折だったがそれを知らず最後の試合までプレーを続けた。日置は一瞬打球が頭に当たったかと思われたが持ち前の反射神経でかわして無事だった。
- 【8月9日】
- 練習試合2日目 VAAKSYのチーム。我がチームの女子選手が頑張る。
- 【8月10日】
- ヒヴィンカーへ移動、いよいよワールドカップだ。ペサパッロの町と言われるこの町は一週間後に行われるオールスター東西対抗の準備が進んでいる。そして、開会式は始まった。
今日のスターはファースト日置と大谷だ、よさこいの衣装に例のヘルメットその上には日の丸のハチマキ、次の日の新聞にデカデカと登場してしまった。前回は阿部が強打者として紙面を飾ったが今回は彼等が日本文化の奥の深さを知らせてくれた。 - 【8月11日】
- 男子オーストラリア戦<0-2>レフト深瀬打撃に開眼。本場なみの豪打で以降打ち続ける。男子ドイツ戦<0-2>白老の中村、ヨケリとしての存在を強烈にアピール、ファンを増やす。
- 【8月12日】
- 男子エストニア戦<0-2>大介、ピッチャー技術の高さを新聞で紹介され子供ファンが増大。女子MIXフィンランド戦<1-1>女子選手三木・生石・筒渕の出番だ。三木はサード、生石はピッチャー、筒渕はショートでそれぞれ守備と肩の良さを印象づけた、特に生石は大男に激突されぶっ飛んだがプレーを続け喝采を浴びた、加わってくれた地元の女子選手との交流も深められ良いゲームだった。
第2回ワールドカップ、我々は勝つことの難しさを思い知らされた
- 【8月13日】
- LAHTIでワールドゲームスの大観衆の前で男子フィンランド戦<0-2>。高原大使と大使館の人が観戦、渋田がラグビー式のダイビングで大活躍。
- 【8月14日】
- 女子MIX第2戦<1-1>フィンチームの日本通青年パーボが日本チームに加わり楽しいゲームになった。男子スウェーデン戦<0-2>日本チームファンの子供達が急増。肩痛で一日だけ試合を休んだショート正木がサイン攻めに大わらわ。
- 【8月15日】
- 男子順位決定戦ドイツ<0-2>一時はリードの局面があったが惜敗、これで試合は全部終わったが、ついに念願の一勝をあげる事は出来なかった。長くきびしかったワールドカップへの挑戦は終わった、傷だらけになりながら、慣れない食事を無理やり口に押し込んで戦った…。ミッコ井口の情熱とリーダー市川の努力でよくここまで来たと思う。名寄、旭川、千歳、白老、小樽、そして札幌。北海道の各地から心を一つにして集まった「日本チーム」の挑戦だった。
Japan Pesapallo team World CUP ’97
Mitsuo(Mikko)IGUCHI
DIRECTOR/HEAD COACH
THE GREAT FATHER OF JAPAN PESAPALLO
井口 光雄
日本のペサパッロの父。1984年かねてより極めて友好の深いフィンランドより国技のペサパッロを日本に紹介。東京でフィンランドクラブ員などとゲームにトライする。翌年知人・友人を集め札幌チームを作り、集めた資料やビデオなどでいろいろルールを研究しながらプレーを楽しむ。全日本チームを2度のワールドカップに出場させた牽引車であり、有能なプロデューサーである。
Yoshio HASEGAWA
VICE DIRECTOR/COACH
長谷川 良雄
名寄にて国際交流を積極的に展開。ペサパッロ名寄チーム監督。ペサパッロのみならず、国際雪像コンクールにも毎年参加。日本雪像コンクール本部も運営。2001年には遂に名寄にて国際雪像大会を開催する。